3日の最高気温は26度。前日に比べ一気に10度も上がりました。
天気が良くなったこともあり、高田の日本共産党ボランティアセンターは大変賑わっていました。
支援物資や衣料品が外に並べられ、若い女性などが沢山集まり、ハンガーに掛けられた衣服を手に取っていました。
大阪から支援に来た人などボランティアも元気に頑張っていました。
3日の最高気温は26度。前日に比べ一気に10度も上がりました。
天気が良くなったこともあり、高田の日本共産党ボランティアセンターは大変賑わっていました。
支援物資や衣料品が外に並べられ、若い女性などが沢山集まり、ハンガーに掛けられた衣服を手に取っていました。
大阪から支援に来た人などボランティアも元気に頑張っていました。
高田松原の松林が有名な海岸線に立ちましたが、そこにも何もありませんでした。一本だけ残った松が寂しげに立っています。
高田地区全体に言えることは、臭いがないということ。浜の臭い、魚の臭いもない。生活していた痕跡が感じられません。津波が全てを押し流し、今はただ爽やかな海風が吹いているだけでした。
ORさん80才、妻77才。河北新報の近くの家も焼肉店も流された。当日は、ゴオーッという音、夫を連れて2階に上がった。ドーンという音とともに家が流された。家は回転しながら、となりの家と一緒に流されるのがわかった。どこかにぶつかり、また流されの繰り返し。そのうち屋根がもっていかれ、空が見えた。ガレキに囲まれていた。
夜になり大雪になり、布団袋をかぶり寒さをしのいだ。畳に乗り、津波と余震、まわりは火の海の中で一晩過ごした。もうダメだとあきらめていた。翌朝、救助のヘリに手を振り、レスキュー隊がおぶって助け出してくれた」と語ってくれました。
奥さんは、「東京大空襲の時に荒川区を逃げ回り気仙沼で暮らすようになったのに、またこんな目に合うなんて」と目に涙をためました。
仮設に入ったが、体の不自由な夫に布団を敷いたら、妻は座布団のスペースしかない。ベッドを入れることもできない。トイレや風呂へ行くときに、段差があり転んでしまった。お年寄りや障がい者が多く入っているのだから、体が不自由な人にも対応してほしいと、訴えていました。
帰り際には、ご夫妻とも泣き出してしまいました。
仮設住宅で暮らすOさん。震災時は民主商工会の集団申請で高台にある市民会館にいましたが、地震直後に海の方に走った。近所の人から「そっちに行ったらダメ、車に乗って」と誘われたが、義母と孫を助けるために一目散。もう100mのところで、義弟たちの車に出会い、義母と孫も助けたことがわかり車で逃げた。弟の車に出合わなかったら助からなかった。
海から100mくらいのところでかまぼこ店を経営。家だけは残っていると思っていた。火災が落ち着いた2日後に高台から見ると、家も工場も何もなかった。亡くなった夫が残したサルスベリの木が1本だけ残っていたので自分の家だとわかった。気仙沼中学校に避難していた。いろいろ不自由だったが、大変ありがたかった。
かまぼこ屋の工場も機械も流された。1千万円や2万円では再建できない。商売をどうするか、先が見えない。仮設住宅には入れたが、着の身着のままで来たので、早く一時金を出してほしいとのこと。
2日の午後は気仙沼中学校近くの仮設住宅の入居者からお話を伺いました。
魚市場で仲買人をしていたTさん79歳、車いすの妻と入居。震災の日は歩けない妻を背負って階段を上り、2階をめざした。妻が、手足が痛いと言い、しかも重いので、途中でおろして下から押し上げた。水が足までかかったが、紙一重で助かった。
「母さんを助けられて良かった」、「震災時は家にいた、市場にいたら助からなかった」と語りました。
自宅の片づけのため、避難所から自宅まで歩いて通い、8kgやせた。4月に入り、ボランティアが来て、片づけてくれた。もう住める状態ではないが、片づけることが出来て安心した。「ボランティアに感謝しています」と述べました。
また、Tさんは、仮設にはとなり組のような連帯がない、集会所があるが、相談できる人やアドバイスもらえる人がほしい、避難所と違い情報がないと訴えました。入居者のマナーやルールづくり、自治会などを通じての支援物資の導入などをすすめたいとのこと。
1日の調査で、気仙沼市の魚市場を再開して、今が旬のカツオの荷揚げをしたいというのが関係者の願いであることがわかりました。しかし、市場を再開し、荷揚げしても、氷をつくり、荷さばきや加工できなければ流通できず、市場周辺の水道の回復、電力の回復が課題になっていました。
2日、地元の秋山市議とともに気仙沼市の水道事業所を調査、公民館を仮事務所にしていました。一般住宅の水道回復率は80%。孤立している地域が残っているが、問題はガレキの撤去、各戸の止水を行い、通水試験を行う必要があるとのこと。
カツオの荷揚げのためには6月中旬に市場を動かす必要がある、水道の復旧を急ぐよう申し入れました。
水道事業所は、製氷会社や加工場にはなんとか通水したい、港町は冠水しているため水道管を敷設できない、露出管も含めて検討したいとの回答がありました。
日本共産党気仙沼ボランティアセンターには北海道からの支援物資が一杯に積まれて、元気に活動していました。センターでは衣服、靴、食器などに仕分け、地元の人に提供しています。
ボランティアセンターに来ていたSさんからお話を伺いました。夫の実家にいたので大丈夫だった。チリ地震の津波を経験したので、自分の家は大丈夫だと思っていた。高台に登って見ると自分の家が流れるのが見えた。波がかぶったと思ったらもう家が流れ、街中が流れていた
身一つで箸の一膳も待たずに避難所暮らし、2か月経ってようやく家を借りられた。位牌も写真も持ち出せなかった。最初は生きているだけで良いと思ったが、長くなると色々必要になる。生活用具は全国からの支援物資で賄った。
Sさんは、被災の身で支援物資の仕分けを手伝っています。
地元の方と一緒に写真撮影。「震災後初めて写真撮るわ」、「こんな時は笑った方がいいのかな」などの声もあがり、厳しい中でも、少し和みました。