2011年6月24日金曜日

今野大力没後76年碑前祭  

プロレタリア詩人・今野大力の没後76年周年碑前祭が命日の6月19日に、旭川市常磐公園内に建てられた詩碑前で開催されました。大力祭運営委員会(能登谷繁委員長)によって、毎年この日に営まれ、今年は25人が参列しました。

黙とう、献花に続き、旭川市教育委員会の河合伸子社会教育部長、日本共産党の真下紀子道議が挨拶し、長年に渡り今野大力研究に取り組んできた佐藤比左良さんが「旭川市文化功労賞」を受賞されたことや、昨年の没後75周年記念事業で佐相憲一氏の『21世紀に生きる今野大力』と題した記念講演が大きな感動を呼んだことなどが讃えられました。

能登谷繁運営委員長は、東日本大震災、大地震、大津波に加えて、人災である原発事故まで加わり、日本社会はまさに国難とも言うべき事態。こういう困難な時だからこそ、大力が謳ったように「時代の先駆をした」と言えるような働きをしたい、日本中の力を合わせて人間らしい復興を遂げるために頑張りたいと述べました。

2011年6月14日火曜日

日本共産党ボランティアセンター賑わう

 3日の最高気温は26度。前日に比べ一気に10度も上がりました。

 天気が良くなったこともあり、高田の日本共産党ボランティアセンターは大変賑わっていました。

 支援物資や衣料品が外に並べられ、若い女性などが沢山集まり、ハンガーに掛けられた衣服を手に取っていました。

 大阪から支援に来た人などボランティアも元気に頑張っていました。

臭いもない、全てを押し流す







 高田松原の松林が有名な海岸線に立ちましたが、そこにも何もありませんでした。一本だけ残った松が寂しげに立っています。

 高田地区全体に言えることは、臭いがないということ。浜の臭い、魚の臭いもない。生活していた痕跡が感じられません。津波が全てを押し流し、今はただ爽やかな海風が吹いているだけでした。

及川議員は最期まで避難誘導

 信金の横、中心街だった場所で車を降りました。信金とMAIYAというショッピングセンターが壁を残していました。

日本共産党の及川一郎議員は、民主商工会の重税反対のデモ行進参加中に津波に遭い、MAIYAで「逃げろ、津波だ」と、最期まで避難する人を誘導し、自らは亡くなりました。

命がけのご奮闘を称え、ご冥福をお祈りします。

陸前高田は何もない

陸前高田市へ。住田町から340号線を気仙川沿いに向かいましたが、海から相当遠いはずの場所でもガレキから山。まち全体が一望できるところに入りましたが、何もない、大きなビルだけが壁をえぐられ、鉄骨をむき出しにして、痛々しく残っていました。

ところどころで重機が動き、車の山、ガレキの山などに分別していますが、他に人の気配がありません。

前の晩に入った食堂の女将さんが「高田は何もない」と寂しそうに語ったのが、思い出されました。

2011年6月13日月曜日

原材料から加工まで

住田町ではこれまで、町内で原材料(丸太)を集成材用ひき板(ラミナ)に製材し、国産スギ・カラマツを使用した構造用集成材を製造し、付加価値の高い木材の流通と地元工務店の経営合理化を目指した「プレカット工場」などを設置してきました。

これらの技術と体制が、今回の仮設住宅にいきたと思われます。

人が交流できるよう配慮










中上団地などを視察。杉の木の香りが新鮮、お風呂の壁まで杉。木・断熱材・木のサンドイッチ状の壁で夏も冬も快適。

戸建てなので地形に合わせた建設が可能になり、玄関を向い合わせ、人が交流できるように配慮してます。

費用は設備、工事費も入れて一戸あたり250万円、プレハブ型と同じ(間取りもほぼ同じ仕様)。

木造・戸建ての仮設住宅ーー住田町を調査

3日目は気仙沼市を離れ、岩手県住田町で木造戸建ての仮設住宅を調査しました。地元の佐々木春一町議に案内していただきました。住田町は被災していませんが、となりの陸前高田市や大船渡市のために、町長が専決で建設を決定しました。全議員協議会での了解は取りつけています。国や県の承認を待たず建設に着手。森林面積が90%を占める「森林日本一のまち」、住田の木、住田の業者を使い、少しでも快適な仮設にしたかったとのことです。

2011年6月12日日曜日

火の海で一晩  東京大空襲を思い出す

ORさん80才、妻77才。河北新報の近くの家も焼肉店も流された。当日は、ゴオーッという音、夫を連れて2階に上がった。ドーンという音とともに家が流された。家は回転しながら、となりの家と一緒に流されるのがわかった。どこかにぶつかり、また流されの繰り返し。そのうち屋根がもっていかれ、空が見えた。ガレキに囲まれていた。

夜になり大雪になり、布団袋をかぶり寒さをしのいだ。畳に乗り、津波と余震、まわりは火の海の中で一晩過ごした。もうダメだとあきらめていた。翌朝、救助のヘリに手を振り、レスキュー隊がおぶって助け出してくれた」と語ってくれました。

奥さんは、「東京大空襲の時に荒川区を逃げ回り気仙沼で暮らすようになったのに、またこんな目に合うなんて」と目に涙をためました。

仮設に入ったが、体の不自由な夫に布団を敷いたら、妻は座布団のスペースしかない。ベッドを入れることもできない。トイレや風呂へ行くときに、段差があり転んでしまった。お年寄りや障がい者が多く入っているのだから、体が不自由な人にも対応してほしいと、訴えていました。

帰り際には、ご夫妻とも泣き出してしまいました。

義母と孫を救うために海へ                 着の身着のまま、早く一時金を

仮設住宅で暮らすOさん。震災時は民主商工会の集団申請で高台にある市民会館にいましたが、地震直後に海の方に走った。近所の人から「そっちに行ったらダメ、車に乗って」と誘われたが、義母と孫を助けるために一目散。もう100mのところで、義弟たちの車に出会い、義母と孫も助けたことがわかり車で逃げた。弟の車に出合わなかったら助からなかった。

海から100mくらいのところでかまぼこ店を経営。家だけは残っていると思っていた。火災が落ち着いた2日後に高台から見ると、家も工場も何もなかった。亡くなった夫が残したサルスベリの木が1本だけ残っていたので自分の家だとわかった。気仙沼中学校に避難していた。いろいろ不自由だったが、大変ありがたかった。

 かまぼこ屋の工場も機械も流された。1千万円や2万円では再建できない。商売をどうするか、先が見えない。仮設住宅には入れたが、着の身着のままで来たので、早く一時金を出してほしいとのこと。

母さんを助けられて良かった                ボランティアに感謝

2日の午後は気仙沼中学校近くの仮設住宅の入居者からお話を伺いました。

魚市場で仲買人をしていたTさん79歳、車いすの妻と入居。震災の日は歩けない妻を背負って階段を上り、2階をめざした。妻が、手足が痛いと言い、しかも重いので、途中でおろして下から押し上げた。水が足までかかったが、紙一重で助かった。

「母さんを助けられて良かった」、「震災時は家にいた、市場にいたら助からなかった」と語りました。

自宅の片づけのため、避難所から自宅まで歩いて通い、8kgやせた。4月に入り、ボランティアが来て、片づけてくれた。もう住める状態ではないが、片づけることが出来て安心した。「ボランティアに感謝しています」と述べました。

また、Tさんは、仮設にはとなり組のような連帯がない、集会所があるが、相談できる人やアドバイスもらえる人がほしい、避難所と違い情報がないと訴えました。入居者のマナーやルールづくり、自治会などを通じての支援物資の導入などをすすめたいとのこと。

2011年6月11日土曜日

電気を通してカツオの荷揚げを

続いて、東北電力気仙沼営業所を訪問。カツオの荷揚げのために、製氷会社や加工場への通電を急ぐように要請しました。製氷会社などは優先的に進める考えだが、ガレキ撤去、浸水箇所の対応が必要とのこと。特に浸水、冠水箇所には電柱を建てられない、仮設道路でも難しい、市の道路整備とも連携して検討すると回答がありました。

カツオの荷揚げしたい

1日の調査で、気仙沼市の魚市場を再開して、今が旬のカツオの荷揚げをしたいというのが関係者の願いであることがわかりました。しかし、市場を再開し、荷揚げしても、氷をつくり、荷さばきや加工できなければ流通できず、市場周辺の水道の回復、電力の回復が課題になっていました。

 2日、地元の秋山市議とともに気仙沼市の水道事業所を調査、公民館を仮事務所にしていました。一般住宅の水道回復率は80%。孤立している地域が残っているが、問題はガレキの撤去、各戸の止水を行い、通水試験を行う必要があるとのこと。

 カツオの荷揚げのためには6月中旬に市場を動かす必要がある、水道の復旧を急ぐよう申し入れました。

水道事業所は、製氷会社や加工場にはなんとか通水したい、港町は冠水しているため水道管を敷設できない、露出管も含めて検討したいとの回答がありました。

のとや繁市議が復興支援


海岸線は壊滅的被害


のとや繁市議は東日本大震災の復興支援のために、真下紀子道議、小田一郎道議団事務局長とともに、6月1日から4日まで宮城県気仙沼市、岩手県住田町、陸前高田市などを訪問し、被災状況や避難生活の現状、今後の復興課題の調査に東奔西走しました。

気仙沼市では魚市場の早期再開の要請を受けて、市水道事業所や東北電力気仙沼営業所への要請も行いました。

人間らしい生活へ再建するため、頑張る決意を新たにしました。

壊滅的被害に言葉が出ない


花巻空港から気仙沼へ。災害対策本部の秋山善治郎市議の案内で被災状況を視察。水産加工場周辺は壊滅的被害、あちこちに船が乗り上げ、県道をふさいでいました。崩壊した冷凍庫のまわりに、今も3万トンの魚が眠っています。ビニールなどに包装されているため海洋投棄が出来ず、大変な腐敗臭が漂っていました。

鹿折(ししおり)地区は未だに焼け焦げた臭い、乗り上げた船が住宅街をなぎ倒した跡。あまりの悲惨さに言葉が出なくなりました。

2011年6月10日金曜日

川を境に死んだ街

5月31日現在、気仙沼市の被災状況は死亡964人、行方不明522人、避難3738人でした。

1日目の帰り道、再び被災のひどい地域を通りました。川を境に死んだ街と生きている街に分かれています。何とも言えない苦しさに胸が押しつぶされそうになりました。

透析で札幌へ 医療連携に感謝

 人工透析の患者さんからお話しを伺いました。

 気仙沼市立病院から札幌の病院に移り、最近ようやく地元に戻ったとのこと。市立病院では被災後、透析時間を半分に減らし対応していましたが、電力も薬剤も不足し透析治療が継続できなくなりました。10日間連絡つかず透析出来なかった人もいたとのこと。

 北海道に自衛隊の輸送機で80人が渡った。尽力していただいた道腎協や透析医会に大変感謝しているとのことでした。


サンマ漁再開したいーー避難所で急きょ相談会

岬の突端にある鶴ケ浦の避難所には14名が滞在、食事のみの方が24名いました。当初は100人近くいましたが、4月に入りフェリーで対岸に移動したとのこと。

地元の秋山市議とともに訪問すると、すぐに輪ができて、急きょ相談会になりました。漁業関係者が多く避難していて、「宮城県知事の漁業特区構想はとんでもない」、「被災者のことを考えていない」と批判が噴出しました。

また、サンマ漁再開のためロシアの中古船を購入したいが、公的補助がどうなるか相談されました。早速、真下道議が道庁から情報をとり、具体的な対応の方法を示し、大変喜ばれました。

震災後初の写真「こんな時は笑った方がいいのかな」

日本共産党気仙沼ボランティアセンターには北海道からの支援物資が一杯に積まれて、元気に活動していました。センターでは衣服、靴、食器などに仕分け、地元の人に提供しています。

ボランティアセンターに来ていたSさんからお話を伺いました。夫の実家にいたので大丈夫だった。チリ地震の津波を経験したので、自分の家は大丈夫だと思っていた。高台に登って見ると自分の家が流れるのが見えた。波がかぶったと思ったらもう家が流れ、街中が流れていた

身一つで箸の一膳も待たずに避難所暮らし、2か月経ってようやく家を借りられた。位牌も写真も持ち出せなかった。最初は生きているだけで良いと思ったが、長くなると色々必要になる。生活用具は全国からの支援物資で賄った。

Sさんは、被災の身で支援物資の仕分けを手伝っています。

地元の方と一緒に写真撮影。「震災後初めて写真撮るわ」、「こんな時は笑った方がいいのかな」などの声もあがり、厳しい中でも、少し和みました。