2011年10月18日火曜日

千代田後援会が総会&備前焼販売

 10月16日、日本共産党千代田後援会が総会を開催し、一年間の活動内容や役員体制などを決めました。旭川市後援会の工藤軍司会長代行が来賓挨拶しました。

 のとや繁議員は、今年の一斉地方選挙での奮闘に感謝しながら、新しい議会の状況などを報告しました。国政では震災の復興財源として国民には8.8兆円の増税を押し付けながら、大企業には11.6兆円も減税にしようとしていることなど、民主党が自民・公明以上の悪政の推進者になっている実態を紹介し、多くの市民に真実を広げていこうと呼びかけました。

 参加者からは「新年会やお花見など、楽しい企画もやりたいね」と声があがりました。

備前焼で秋のひととき

会終了後、毎年恒例の備前焼の販売会を開催しました。生け花や喫茶コーナー、着物姿もあり、大変楽しい秋のひとときとなりました。

2011年10月17日月曜日

常磐公園堤防の樹木伐採に批判の声

 旭川市では、現在、平成22年2月に策定された「文化芸術ゾーン基本構想」に基づく,常磐公園改修事業の実施に向けて、検討懇談会を設置し、基本計画づくりを進めています。

 しかし,整備方針の一つである「公園と河川空間の一体化」については、国(開発)と連携し「石狩川常磐築堤の緩傾斜化」を進めていくことになり、整備に際して、堤防付近の樹木伐採が伴うことが計画に盛り込まれていることから、市民の中から樹木伐採に反対する運動が始まっています。

 共産党市議団としては、9月の一般質問で取り上げ、市の土木部を伴い現地調査を行いました。

2011年10月16日日曜日

さすが旭山動物園!かけあい漫才?

10月9日、札幌、京都、大阪から来た親戚を旭山動物園に案内しました。お天気に恵まれ、ゆっくりと動物を見学できて、大変喜ばれました。それにしても6時間も動物園にいたのは初めての経験でした。

最後に見たオランウータンのもぐもぐタイムでは、坂東元園長とオランウータンの親子のやりとりが、かけあい漫才のようでした。園長もほとんど家族のようで、餌をあげない時は、稼ぎの悪い亭主のように扱われていて、長年連れ添った夫婦の域に達していました。 

 そのやりとりの中でも、園長は、ボルネオの自然保護について時間を大幅に延長して熱弁され、観客一同すっかり聞き入りました。

 さすが、旭山動物園、坂東園長、目が離せませんね。

2011年10月4日火曜日

観光協会関連の不正問題 追加調査を約束

のとや繁議員は、9月30日の総括質疑に立ち、観光協会関連事業の不正の全容解明と事務執行の改善を求めました。

2010年度の雪あかり事業については、今年の331日に実行委員会から実績報告を受け、同日中に市は補助金の支給を確定しました。しかも決算審議をしている今日においても、実行委員会の監査は受けていないこと、預金通帳のチェックなど具体的な点検も行っていないなど、市の大事な公金を支給していながらノーチェック体制だったということが、のとや議員の分科会質疑で明らかになりました。

のとや議員は、長年に渡る市と観光協会の馴れ合い、市の管理監督体制の甘さが、事実上不正を許す温床だったのではないか、新たな事態を踏まえた中で、市として独自に追加調査を行い全容解明する必要があると指摘しました。

西川将人市長は「補助金を交付している市としての検査方法が不十分であり,それを見抜けなかったことについては、真摯に反省しなければならない。」「前事務局長本人に聞き取り調査するなど,必要な追加調査を実施する必要がある」と答えました。

写真は9月30日の総括質疑。

2011年9月22日木曜日

鉄道高架地元発注0.4% 土地利用が課題

のとや繁議員は第3回定例会の大綱質疑に立ち、旭川市の財政状況、北彩都あさひかわ、地域循環型の経済、観光協会の不正問題などについて質疑しました。

 鉄道高架事業の2010年度の地元発注率が0.4%、土地区画整理事業の79.3%に比べても異常に低い状況、JR駅が新しくなり乗降客が一便平均で0.25人の増加にとどまっていることなどが明らかになりました。

のとや議員は、鉄道高架事業(約601億円)の抜本的な見直しを再三求め、ようやく8.5億円のコスト縮減が実現しました。

 また、北彩都あさひかわの土地区画整理事業では、JR北海道が膨大な土地を所有し、今後は約4.7ヘクタール14街区分を処分することになります。この用地が自由勝手に販売され、既存の商店街や既存の市街地と競合するような商業施設が無秩序に出店されると影響は深刻になります。

 のとや議員は、これまで土地利用についてはJRとまちづくり協定を締結すべきと求めてきた中で、具体的な取り組みについて質問しました。

西川将人市長は、「JR北海道所有地の事業展開にあたっては,事前に本市と協議することや、まちづくり協定の締結を要望してきた。JR北海道からは、既にある様々な制度を踏まえて土地利用を進めていきたいと回答を得ている。土地利用の際には,早い段階で情報を旭川市に提供していただける」と答弁しました。

2011年9月3日土曜日

観光協会の不正 市のチェック不十分

 のとや繁議員は、旭川観光協会が旭川市から受けている補助金を着服していた問題で、7月と8月の2回の経済文教委員会で質問し、全容解明と管理体制の徹底を求めました。

 市が2010年度に観光協会に支出した補助金等は7000万円、この5年間で2倍に膨れ上がっていることが明らかになりました。のとや議員は、観光協会の前事務局長が市の補助事業費約200万円も着服しながら、旭川市は年度ごとの決算報告だけで、十分な管理をしていなかったことや着服金の返還内容も把握していないなど、市の管理体制の甘さを指摘しました。

 のとや議員の指摘に対し、佐々木恵一経済観光部長は「チェック機能が不十分だった。今後は中途のチェックなどを行う」と改善を約束しました。


2011年8月18日木曜日

いわき市の子ども達を迎えて

 東日本大震災で被災した福島県いわき市の子ども達を、夏休みに旭川市に招待する事業を市民有志とともに企画。北海道と旭川市のバックアップによって実現しました。

 87日から一週間、いわき市の打楽器オーケストラOVO NOVO(新しい卵の意)のみなさんを旭川市に迎え、旭川の子どもと一緒に舞台美術を制作し、打楽器の演奏にも一緒に取り組み、12日には「カムイ・パーカッション・シンフォニーコンサート」を行いました。 

 子ども達が作った、コロポックルをイメージした舞台美術の中で、幻想的で力強い子ども達の演奏に、惜しみない拍手が寄せられました。のとや繁も陰で舞台アナウンサーで参加しました。

 のとや宅には、1家族4人がホームスティ。「久しぶりに公園の遊具で遊べた、放射線のことを気にせずに食べられた、今年初めて花火をした」との感想。改めて福島の人たちの厳しい生活環境を思い知らされました。

その後、我が家にホームスティしたご家族から手紙と写真が届きました。「今度はお父さんもつれていきたい」との事。うれしいですね。

いわき市も旭川市も、思い出いっぱいの夏になりました。

2011年8月17日水曜日

市議会が新名所?  全国から視察相次ぐ

 昨年制定した「議会基本条例」に対し、全国各地の議会から視察が相次いでいます。

 のとや繁議員は基本条例検討委員として条例策定にかかわってきましたので、福山市、岸和田市、川口市に説明者として対応。

 これまで旭川市に来る視察は、動物園ばかりでしたが、市議会も新名所?に加わったのでしょうか。

 7月から11月まで、11120人の受け入れ予定です。

2011年8月16日火曜日

旭川夏まつり、神輿で元気に

 旭川夏まつりは、8月4日に開会式と花火大会、5日は舞踊パレード、最終日の6日は大雪連合神輿で賑わいました。

 大雪連合神輿の出陣式に参加し、勇壮なパレードの先頭を歩かせていただきました。今年は、保育園児達の「ちびっ子神輿」や「お囃子」のみなさんともパレードし、すっかり元気をもらいました。

2011年8月15日月曜日

災害想定、道が責任を  上川総合振興局と交渉

 729日、のとや繁議員は真下紀子道議らとともに、上川総合振興局に「要望書」を提出し、交渉しました。市議団が提出した要望書九分野三六項目について回答があり、災害に強いまちづくりを進めるために市町村ごとの被害想定を北海道が責任を持って行うこと、福祉避難所を整備するために北海道として八月に会議を召集し指導を強めること、道営住宅の指定管理者制度は従来のサービスを維持することなど、前向きな回答がありました。

真下道議は、北電の泊原発三号機の営業運転再開については道民の合意がなく許されないと厳しく指摘し、上川管内でも再生可能エネルギーを推進するよう強く求めました。

2011年8月14日日曜日

永山地域で2つのまつり

 7月23日道北勤医協ながやま医院の健康まつりに参加しました。涼しく過ごしやすい天気の中、お母さん達でつくる吹奏楽「マミーズ」の演奏が響きました。子どもを背中におんぶしてサックスを吹く若いお母さんなど、なかなか楽しい演奏でした。

夕方からは、永山ほたる保育園の宵まつりに参加。ニジマスのつかみどりに子ども達が歓声をあげていました。ちびっ子達のすごいパワーに、あっという間に魚はいなくなりました。

2011年7月8日金曜日

福祉避難所の整備が明らかに

 6月22日、のとや繁議員の一般質問では福祉避難所の整備について取り上げました。

今回の震災の中で、高齢者の方をせっかく助け出したのに、避難所に入った後に亡くなるという痛ましい事態がありました。災害救助法では、高齢者や障がい者などの災害弱者のために、福祉避難所を指定することを定めていますが、旭川市の場合は一か所も指定されていません。災害が起きてから、福祉避難所を指定していたのでは遅い。災害弱者を守るため、ただちに福祉避難所の指定をすすめる必要があるのではありませんか。

 市は、「福祉避難所の整備の必要性を強く感じた。今後、関係部局と連携して指定に向けて取り組んでまいりたい」と、初めて福祉避難所の整備を明らかにしました。

2011年7月7日木曜日

介護保険「総合事業」導入せず、現行サービス守る

 のとや繁議員は622日の一般質問に立ち、福祉と防災の街づくり、介護保険法「改正」の影響などについて質問しました。

6月15日、介護保険法が「改正」され、「総合事業」の名のもとに介護費用を減らすために生活援助やデイサービスをボランティアに任せるなどの事態が起きかねないと指摘されています。具体的には旭川市の「配食サービス」や「見守り事業」のサービスがとりあげられるのではないかと心配されているが、どのようになるのか質問しました。

 市は、「現時点では総合事業の導入は考えていない」と答え、現行どおりのサービスを守る立場を明らかにしました。

2011年7月6日水曜日

聴覚障害者への情報発信方法の検討を

622日、のとや繁議員の一般質問では災害時の聴覚障害者の情報発信について取り上げました。

聴覚障がい者などの場合は災害時の情報は限定されているため、京都市などは地域防災計画にツイッターでの災害情報を発信することを検討しています。旭川市でも災害時の情報発信のあり方を検討すべきではないでしょうか。

 市は、「今後の聴覚障がい者を対象として、ツイッターや電子メールなど、情報の発信方法を、調査研究する」と答えました。

2011年7月5日火曜日

市役所の安全対策、一歩踏み込んで議論開始

622日、のとや繁議員の一般質問では市有施設の耐震化について取り上げました。

小中学校の耐震化はこれまでも指摘してきましたが、市役所の総合庁舎についても危険度が高いと指摘されながら、具体的な対策がありませんでした。市役所を利用する人や職員の安全対策を行い、また行政の基本的なデータを守る備えも必要になっています。いざというときに人が逃げ込める、頑丈なバックアップセンターを2階か3階程度の建物でも、最低限の行政機能を代替えできる強度の高い建物をつくっておくべきではないかと提案しました。

 西川将人市長は、「庁舎の安全対策やデータの保管は重要な要件。提案のあった最低限の行政機能をもった強度の高い小規模な庁舎とする考えもある。従来の考え方にとらわれずに幅広く検討していきたい」と、これまで庁舎は当面建て替えないという考え方から、一歩踏み込んで、議論を開始する考えを示しました。

2011年7月4日月曜日

旭川市地域防災計画を見直し

 のとや繁議員は622日の一般質問に立ち、福祉と防災の街づくり、介護保険法「改正」の影響などについて質問しました。

旭川市地域防災計画は、現在、最大でも震度「6弱」しか想定していません。また、火山噴火予知連が大雪山を監視・観測体制が必要な火山と選定した中で、旭岳が噴火した場合の想定など、必要な対策を新たに盛り込まなければなりません。

 市は、「直下型地震はどこでも起こり得る、この度の災害を検証し、修正の方向性や具体的な改正点を適切に見据え、可能な限り逐次修正を図る」と答弁しました。

2011年6月24日金曜日

今野大力没後76年碑前祭  

プロレタリア詩人・今野大力の没後76年周年碑前祭が命日の6月19日に、旭川市常磐公園内に建てられた詩碑前で開催されました。大力祭運営委員会(能登谷繁委員長)によって、毎年この日に営まれ、今年は25人が参列しました。

黙とう、献花に続き、旭川市教育委員会の河合伸子社会教育部長、日本共産党の真下紀子道議が挨拶し、長年に渡り今野大力研究に取り組んできた佐藤比左良さんが「旭川市文化功労賞」を受賞されたことや、昨年の没後75周年記念事業で佐相憲一氏の『21世紀に生きる今野大力』と題した記念講演が大きな感動を呼んだことなどが讃えられました。

能登谷繁運営委員長は、東日本大震災、大地震、大津波に加えて、人災である原発事故まで加わり、日本社会はまさに国難とも言うべき事態。こういう困難な時だからこそ、大力が謳ったように「時代の先駆をした」と言えるような働きをしたい、日本中の力を合わせて人間らしい復興を遂げるために頑張りたいと述べました。

2011年6月14日火曜日

日本共産党ボランティアセンター賑わう

 3日の最高気温は26度。前日に比べ一気に10度も上がりました。

 天気が良くなったこともあり、高田の日本共産党ボランティアセンターは大変賑わっていました。

 支援物資や衣料品が外に並べられ、若い女性などが沢山集まり、ハンガーに掛けられた衣服を手に取っていました。

 大阪から支援に来た人などボランティアも元気に頑張っていました。

臭いもない、全てを押し流す







 高田松原の松林が有名な海岸線に立ちましたが、そこにも何もありませんでした。一本だけ残った松が寂しげに立っています。

 高田地区全体に言えることは、臭いがないということ。浜の臭い、魚の臭いもない。生活していた痕跡が感じられません。津波が全てを押し流し、今はただ爽やかな海風が吹いているだけでした。

及川議員は最期まで避難誘導

 信金の横、中心街だった場所で車を降りました。信金とMAIYAというショッピングセンターが壁を残していました。

日本共産党の及川一郎議員は、民主商工会の重税反対のデモ行進参加中に津波に遭い、MAIYAで「逃げろ、津波だ」と、最期まで避難する人を誘導し、自らは亡くなりました。

命がけのご奮闘を称え、ご冥福をお祈りします。

陸前高田は何もない

陸前高田市へ。住田町から340号線を気仙川沿いに向かいましたが、海から相当遠いはずの場所でもガレキから山。まち全体が一望できるところに入りましたが、何もない、大きなビルだけが壁をえぐられ、鉄骨をむき出しにして、痛々しく残っていました。

ところどころで重機が動き、車の山、ガレキの山などに分別していますが、他に人の気配がありません。

前の晩に入った食堂の女将さんが「高田は何もない」と寂しそうに語ったのが、思い出されました。

2011年6月13日月曜日

原材料から加工まで

住田町ではこれまで、町内で原材料(丸太)を集成材用ひき板(ラミナ)に製材し、国産スギ・カラマツを使用した構造用集成材を製造し、付加価値の高い木材の流通と地元工務店の経営合理化を目指した「プレカット工場」などを設置してきました。

これらの技術と体制が、今回の仮設住宅にいきたと思われます。

人が交流できるよう配慮










中上団地などを視察。杉の木の香りが新鮮、お風呂の壁まで杉。木・断熱材・木のサンドイッチ状の壁で夏も冬も快適。

戸建てなので地形に合わせた建設が可能になり、玄関を向い合わせ、人が交流できるように配慮してます。

費用は設備、工事費も入れて一戸あたり250万円、プレハブ型と同じ(間取りもほぼ同じ仕様)。

木造・戸建ての仮設住宅ーー住田町を調査

3日目は気仙沼市を離れ、岩手県住田町で木造戸建ての仮設住宅を調査しました。地元の佐々木春一町議に案内していただきました。住田町は被災していませんが、となりの陸前高田市や大船渡市のために、町長が専決で建設を決定しました。全議員協議会での了解は取りつけています。国や県の承認を待たず建設に着手。森林面積が90%を占める「森林日本一のまち」、住田の木、住田の業者を使い、少しでも快適な仮設にしたかったとのことです。

2011年6月12日日曜日

火の海で一晩  東京大空襲を思い出す

ORさん80才、妻77才。河北新報の近くの家も焼肉店も流された。当日は、ゴオーッという音、夫を連れて2階に上がった。ドーンという音とともに家が流された。家は回転しながら、となりの家と一緒に流されるのがわかった。どこかにぶつかり、また流されの繰り返し。そのうち屋根がもっていかれ、空が見えた。ガレキに囲まれていた。

夜になり大雪になり、布団袋をかぶり寒さをしのいだ。畳に乗り、津波と余震、まわりは火の海の中で一晩過ごした。もうダメだとあきらめていた。翌朝、救助のヘリに手を振り、レスキュー隊がおぶって助け出してくれた」と語ってくれました。

奥さんは、「東京大空襲の時に荒川区を逃げ回り気仙沼で暮らすようになったのに、またこんな目に合うなんて」と目に涙をためました。

仮設に入ったが、体の不自由な夫に布団を敷いたら、妻は座布団のスペースしかない。ベッドを入れることもできない。トイレや風呂へ行くときに、段差があり転んでしまった。お年寄りや障がい者が多く入っているのだから、体が不自由な人にも対応してほしいと、訴えていました。

帰り際には、ご夫妻とも泣き出してしまいました。

義母と孫を救うために海へ                 着の身着のまま、早く一時金を

仮設住宅で暮らすOさん。震災時は民主商工会の集団申請で高台にある市民会館にいましたが、地震直後に海の方に走った。近所の人から「そっちに行ったらダメ、車に乗って」と誘われたが、義母と孫を助けるために一目散。もう100mのところで、義弟たちの車に出会い、義母と孫も助けたことがわかり車で逃げた。弟の車に出合わなかったら助からなかった。

海から100mくらいのところでかまぼこ店を経営。家だけは残っていると思っていた。火災が落ち着いた2日後に高台から見ると、家も工場も何もなかった。亡くなった夫が残したサルスベリの木が1本だけ残っていたので自分の家だとわかった。気仙沼中学校に避難していた。いろいろ不自由だったが、大変ありがたかった。

 かまぼこ屋の工場も機械も流された。1千万円や2万円では再建できない。商売をどうするか、先が見えない。仮設住宅には入れたが、着の身着のままで来たので、早く一時金を出してほしいとのこと。

母さんを助けられて良かった                ボランティアに感謝

2日の午後は気仙沼中学校近くの仮設住宅の入居者からお話を伺いました。

魚市場で仲買人をしていたTさん79歳、車いすの妻と入居。震災の日は歩けない妻を背負って階段を上り、2階をめざした。妻が、手足が痛いと言い、しかも重いので、途中でおろして下から押し上げた。水が足までかかったが、紙一重で助かった。

「母さんを助けられて良かった」、「震災時は家にいた、市場にいたら助からなかった」と語りました。

自宅の片づけのため、避難所から自宅まで歩いて通い、8kgやせた。4月に入り、ボランティアが来て、片づけてくれた。もう住める状態ではないが、片づけることが出来て安心した。「ボランティアに感謝しています」と述べました。

また、Tさんは、仮設にはとなり組のような連帯がない、集会所があるが、相談できる人やアドバイスもらえる人がほしい、避難所と違い情報がないと訴えました。入居者のマナーやルールづくり、自治会などを通じての支援物資の導入などをすすめたいとのこと。

2011年6月11日土曜日

電気を通してカツオの荷揚げを

続いて、東北電力気仙沼営業所を訪問。カツオの荷揚げのために、製氷会社や加工場への通電を急ぐように要請しました。製氷会社などは優先的に進める考えだが、ガレキ撤去、浸水箇所の対応が必要とのこと。特に浸水、冠水箇所には電柱を建てられない、仮設道路でも難しい、市の道路整備とも連携して検討すると回答がありました。

カツオの荷揚げしたい

1日の調査で、気仙沼市の魚市場を再開して、今が旬のカツオの荷揚げをしたいというのが関係者の願いであることがわかりました。しかし、市場を再開し、荷揚げしても、氷をつくり、荷さばきや加工できなければ流通できず、市場周辺の水道の回復、電力の回復が課題になっていました。

 2日、地元の秋山市議とともに気仙沼市の水道事業所を調査、公民館を仮事務所にしていました。一般住宅の水道回復率は80%。孤立している地域が残っているが、問題はガレキの撤去、各戸の止水を行い、通水試験を行う必要があるとのこと。

 カツオの荷揚げのためには6月中旬に市場を動かす必要がある、水道の復旧を急ぐよう申し入れました。

水道事業所は、製氷会社や加工場にはなんとか通水したい、港町は冠水しているため水道管を敷設できない、露出管も含めて検討したいとの回答がありました。

のとや繁市議が復興支援


海岸線は壊滅的被害


のとや繁市議は東日本大震災の復興支援のために、真下紀子道議、小田一郎道議団事務局長とともに、6月1日から4日まで宮城県気仙沼市、岩手県住田町、陸前高田市などを訪問し、被災状況や避難生活の現状、今後の復興課題の調査に東奔西走しました。

気仙沼市では魚市場の早期再開の要請を受けて、市水道事業所や東北電力気仙沼営業所への要請も行いました。

人間らしい生活へ再建するため、頑張る決意を新たにしました。

壊滅的被害に言葉が出ない


花巻空港から気仙沼へ。災害対策本部の秋山善治郎市議の案内で被災状況を視察。水産加工場周辺は壊滅的被害、あちこちに船が乗り上げ、県道をふさいでいました。崩壊した冷凍庫のまわりに、今も3万トンの魚が眠っています。ビニールなどに包装されているため海洋投棄が出来ず、大変な腐敗臭が漂っていました。

鹿折(ししおり)地区は未だに焼け焦げた臭い、乗り上げた船が住宅街をなぎ倒した跡。あまりの悲惨さに言葉が出なくなりました。

2011年6月10日金曜日

川を境に死んだ街

5月31日現在、気仙沼市の被災状況は死亡964人、行方不明522人、避難3738人でした。

1日目の帰り道、再び被災のひどい地域を通りました。川を境に死んだ街と生きている街に分かれています。何とも言えない苦しさに胸が押しつぶされそうになりました。

透析で札幌へ 医療連携に感謝

 人工透析の患者さんからお話しを伺いました。

 気仙沼市立病院から札幌の病院に移り、最近ようやく地元に戻ったとのこと。市立病院では被災後、透析時間を半分に減らし対応していましたが、電力も薬剤も不足し透析治療が継続できなくなりました。10日間連絡つかず透析出来なかった人もいたとのこと。

 北海道に自衛隊の輸送機で80人が渡った。尽力していただいた道腎協や透析医会に大変感謝しているとのことでした。


サンマ漁再開したいーー避難所で急きょ相談会

岬の突端にある鶴ケ浦の避難所には14名が滞在、食事のみの方が24名いました。当初は100人近くいましたが、4月に入りフェリーで対岸に移動したとのこと。

地元の秋山市議とともに訪問すると、すぐに輪ができて、急きょ相談会になりました。漁業関係者が多く避難していて、「宮城県知事の漁業特区構想はとんでもない」、「被災者のことを考えていない」と批判が噴出しました。

また、サンマ漁再開のためロシアの中古船を購入したいが、公的補助がどうなるか相談されました。早速、真下道議が道庁から情報をとり、具体的な対応の方法を示し、大変喜ばれました。

震災後初の写真「こんな時は笑った方がいいのかな」

日本共産党気仙沼ボランティアセンターには北海道からの支援物資が一杯に積まれて、元気に活動していました。センターでは衣服、靴、食器などに仕分け、地元の人に提供しています。

ボランティアセンターに来ていたSさんからお話を伺いました。夫の実家にいたので大丈夫だった。チリ地震の津波を経験したので、自分の家は大丈夫だと思っていた。高台に登って見ると自分の家が流れるのが見えた。波がかぶったと思ったらもう家が流れ、街中が流れていた

身一つで箸の一膳も待たずに避難所暮らし、2か月経ってようやく家を借りられた。位牌も写真も持ち出せなかった。最初は生きているだけで良いと思ったが、長くなると色々必要になる。生活用具は全国からの支援物資で賄った。

Sさんは、被災の身で支援物資の仕分けを手伝っています。

地元の方と一緒に写真撮影。「震災後初めて写真撮るわ」、「こんな時は笑った方がいいのかな」などの声もあがり、厳しい中でも、少し和みました。

2011年5月31日火曜日

避難者に心のこもった支援を

 震災の被災者で旭川市に避難している世帯が31世帯68人います。

 市は住宅を貸した場合でも、冷蔵庫などの生活用品を用意していないことがわかり、あまりにも対応が冷たいのではないかと、心配する市民から日本共産党市議団に連絡がありました。

 30日、市議団として生活支援金の支給や必要な生活用品の提供など、心のこもった支援を行うように申し入れました。また、災害救助法の適用されていない地域でも、避難者の食事の提供が可能になっている情報も伝えて具体的な改善を求めました。

 一般の転入ではないので、きめ細かく相談に応じる体制が必要です。

2011年5月30日月曜日

原発からの撤退署名

 528日、原発からの撤退を求める署名と震災の救援募金の宣伝を行いました。一条買物公園で、真下紀子道議と旭川市議団、日本共産党後援会が取り組みました。

 チラシ配布アルバイトの女性が「署名させてください」と協力してくれ、宮城県から避難してきたことを話してくれました。

 短時間でしたが63筆の署名など、多くのみなさんからご協力をいただきました。

2011年5月21日土曜日

議会人事決まる 監査に小松あきら議員

旭川市議会は5月16~18日臨時議会をひらき、議会人事などを決めました。

議長に三井幸雄氏(民主・市民連合)、副議長に室井安雄氏(公明党)を選出しました。日本共産党は、議長に太田元美、副議長に小松あきらの独自候補で臨みましたが及びませんでした。

旭川市監査委員に小松あきらが選任されました。

また、党旭川市議団の体制は、団長に小松あきら、幹事長にのとや繁となりました。議会運営委員会は、のとや繁、石川厚子が委員となりました。常任委員会は、太田元美が総務、石川厚子が民生、のとや繁が経済・文教、小松あきらが建設公営企業に所属しました。

核兵器廃絶の願い~~市長も新署名に賛同


2011年国民平和大行進が514日旭川市で行われ、北海道から東京コースの通し行進者である竹田昭彦さん(70)=横浜市=を先頭に、16団体約100人が参加しました。

市役所前広場で集結集会が行われ、通し行進者の竹田昭彦さんは「父は赤紙一枚で召集され、私が四歳の時に亡くなりました。戦争なくせ、核兵器なくせ、平和の世界に、と訴えながら歩き通します」と決意を述べました。

霜野洋一・道北原水協事務局長からは、すべての国の政府に核兵器禁止条約の交渉を開始するよう求める「核兵器全面禁止のアピール」新署名に対する自治体の賛同が広がっている状況が報告されました。

旭川市の西川将人市長は18日、新署名の賛同者に名前を連ねました。

友の会のお花見

道北勤医協友の会のお花見が市内5か所で開催されました。日本共産党議員団が地域ごとに交流しました。

写真は14日に開かれた一条通ブロックのお花見で挨拶する議員団です。

左から、のとや繁幹事長、真下紀子道議、小松あきら市議団長